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"エディトリカル・ギター"と、マシンと身体性の相互作用について。〜コーネリアス、Mura Masa、マイルス・デイヴィス〜

ちょくちょく「エディトリアル・ギター」について考えてる。

といってもこの「エディトリアル・ギター」とは僕の造語で、そのまま言い換えると「編集チックなギター」という意味になる・・。

とにかく「エディトリアルギター」という言葉を通して僕が考えているのは、
作曲現場におけるコンピュータの導入以降、"ギターを演奏する" という行為の中身が大きく変容したのではないか、
マシンと身体性が有機的に混ざりあった、新しい身体感覚による演奏が生まれているのではないか、ということだ。

そんな人力か非人力かという単純な構図から抜け出した多元的なギター像をエディトリカルギターと呼称して考えている。
めちゃくちゃな暴論かもしれないが、エディトリカルギターにおいては、コンピューター上でのギターの音の編集作業すらも「ギターを弾く」行為に含めてしまうのだ。
まず、エディトリカル・ギターについての説明をしつつ、曲作りにおいての「作曲」と「編曲」の関係性を伝えたい。




まず、「作曲」段階について。
作曲は " 骨格づくり " のようなものである。
そして、
録音したギターの音をコンピューター上でエディット(イコライザーによる無駄な周波数帯カットや、エフェクターの設定)したり、
他の音とのバランス(音量、対位の調整)を考えていく。
この段階が「サウンドメイク」、「編曲」にさしかかる工程であり、音の " 着色 " 作業に近いかもしれない。

従来の流れとしては、作曲(作詞)→レコーディング→エディット(調整、編曲)は直列作業であり、
そのつどで頭を切り替えなければならない。

また、スタジオではレコーディングの場所とエディットの場所があまりにも物理的に離れているので、否が応でも録音と編集作業を切り分けて進めなければならない。


それにたいしてエディトリアルギターとは、実演奏(作曲工程)とエディットを同時並行で進めるうえでのギターの演奏法のことだ




この同時並行のフロウによって、 " 着色 " であるサウンドメイク・編曲工程が、 " 骨格 " づくりである作曲工程に
踏み込むようになった。


例えば、リバーブやディレイやディストーションのような音を増幅できるエフェクトをギターに与えたとする。
するとギターの音が過剰に空間を埋め尽くしてしまうため、音の埋もれを解消するために音数を減らす対処をしたとする。
つまり、音にエフェクトをかけるという編集によって、音数を減らす=メロディの変化をせざるを得なくなったという訳であり、
まさにサウンドメイク= " 着色 " 作業が、メロディという " 骨格 " に影響を与えている。

あるいは、ピッチ加工やクオンタイズによるズレ補正、音のカット&ペースト、AIによる自動の音像調整など、さまざまなエディットやエフェクターを通せば、
録音したギター音の原型から遠く離れたまったく違うサウンドやグルーヴを作り出す事が可能で、
この生身では不可能なエディットによって生まれるマシナリーなグルーヴが歌の "骨格" やギタリストの身体性に大きく影響するのは当然である。
コンピュータによる制作現場においてさまざまな選択肢が生まれてしまった以上、ギターを手に持っている最中にも、
加工後の音を想定した上での音数の増減やピッキングの強弱を調整した演奏が常に求められる。


いっけん表面的な音色作りという作業も、歌の骨格にあたるメロディ作りとかなり密につながっている。
ぼくが言うエディトリカルギターとは、そういった「作曲」と「編曲」の関係を前提とした
「のちのコンピューターでの編集作業で生じる音の変化を踏まえたうえでの生身の演奏」のことを指している。

「無音」の表現を例にしてもわかりやすいかもしれない。ギターでミュートを実現させるには指で軽く弦に触れれば可能だ。しかしコンピュータを持っているなら、
録音したギターの音をパソコン上で波形化して音量を-0dbにする、という選択肢もある。
どちらの手段を取っても無音は生まれるがニュアンスは大きく異なるはずで、そこの区別を大前提としてどう演奏するのかを考えることが
編集者による編集的なギターだと考えている。


ここで、「エディトリアルギター」はサンプリング技法を踏襲して生まれたものであることを、Corneliusの楽曲を挙げて分析していきたい。
imdkm著『リズムから考えるJ-POP史』(2019年、株式会社blueprint)、「サンプリングからエディット/カットアップへ」の章において
重要なトピックが投げかけられているのでそれを引用したい。

重要なのは、1990年代におけるサンプリング、ないしDJ的な感覚から、DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション。音楽制作用のさまざまな機能をそろえた総合的なソフトウェアの総称。)上でのエディットやカットアップへの方法論的な転換であると考える。

・・・引用者による省略・・・
Avalanchesが、2ndアルバム『Wildflower』を発表するまでに16年もの歳月がかかった一因には、サンプルのクリアランスの問題があったからとも言われる。
そこで、2000年代に入ると、サンプリングを得意としていたミュージシャンが方向性を変える例が相次いだ。
その最たる例がCorneliusが『FANTASMA』(1997年9月3日リリース)から『POINT』(2001年10月24日リリース)で辿った変化だろう。
既存のサンプルを組み替えるのではなく、自身の演奏を含めた音源をProToolsなどのDAW上でエディットするようになり、サウンドとしても意味としても
過剰さに溢れていた『FANTASMA』からミニマリスティックなアプローチが光る『POINT』へと変化したのだ。(p.118-120)

本書のこの章ではサンプリング手法のもつ、元の楽曲のグルーヴと文脈や歴史的背景を取り出しそれを残した上で新たな楽曲として再構築するという性質、
これにつきまとうクリアランス問題を乗り越えるために、サンプリングから抜け出しエディット中心の作曲へ方向性を変える流れがあったことが記されている。

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ここでCorneliusの楽曲を聴いてみてもらいたい。ギターがふんだんに盛り込まれているがこれらは生演奏では決して生まれない音だとわかる。
どういうことかというと、まず、自然に存在する音は基本的に減衰音である。音の正体となる空気や物質の振幅はしだいに小さくなりやがて止まる、
つまり必ず余韻が存在する。
それに対してCorneliusのギターは余韻がない。なぜなら、録音したギターの音の余韻部分をコンピューター上カットしているからだ。
余韻がない音は自然には存在しないためかなり人工的な印象をもつ。だからこそCorneliusのギターは実演奏では再現不可能なのである。

そこでぼくの頭に「どういうつもりでギター弾いてんだろ?」という疑問が浮かんだ。
ギターを弾くのは気持ちいい。ギターが好きならばバイヴスに任せていつまでも感情的に弾いてしまえる、だけどあえて一歩引き下がったところで
冷静にギターを弾いてるような態度がこの曲からうかがえる。
それは、のちのちに「どのタイミングでギターの音をカットするのか」「ギターらしいエモーショナルをどの程度垣間見せるべきか」といった
曲じたいの完成像へ忠実に近づけたいという理性が先立っており、必要分量だけのギター音の素材を用意するためだけにギターを弾いているような態度がある。

あくまでギタリストではなくプロデューサーとしてギターを弾く。これは音色のみならず、ギタリストがギターに載せるエモーショナルすらも
「素材」として取り扱おうとするクールさゆえのギターの音の扱い方であり、この点においても、
実演奏と編集が完全に融和したギターの演奏法が見られる。
エディトリカルギターには、音色も文脈も感情も「素材」と見なすサンプリング的な発想が根幹にあり、
だからこそ実演奏という身体性に依存しすぎる事がなく、エディット的視点が並行して保たれているのである。
まるで、ビートを打ち込むようにギターを弾いているようである。


他にもカニエやムラマサ、テームインパラ、エイサップロッキーらの楽曲に登場するギターサウンドはまさにエディトリカルだと思う。
Mura Masaの新譜『R.Y.C』の楽曲を聴いてもらいたい。

www.youtube.com


ギター特有のエモさをある程度保ちつつ、決して他の音色への邪魔も隣の音域への侵食もしない、徹底的に整備されたギターが鳴らされている。
この整備されたギターのバランス感覚はコンピューター上での編集作業の賜物だが、同時にポストロックや「音響派」らの土壌で培われたギターの扱い方が感じられる。
それはつまり、Protoolsのような楽曲制作ソフトがスタジオに導入されたことで多様な音色を取り入れることが可能になってしまったがために、
いっそう各音色たちのバランスと均衡が求められ、「音色そのもの」よりも「音色と音色の響きあい混ざり合う汽水域」な空間へ
クリエイティヴィティがフォーカスされた背景で生まれたギターサウンドのことである。
ギターの音に心酔しつつもどこかクールに俯瞰し、音同士のあいだの空間と関係性に注目した編集者としての立場がMura Masaのギターにも感じ取られる。




ここまでエディトリアルギターについての特徴をまとめると以下のようである。
・作曲(歌の"骨格づくり")と編曲("着色"、"肉付け")が同時並行である
・のちのコンピューター上での編集作業による音の変化を踏まえたうえでの生身の演奏
・実演奏という身体性に依存しすぎない態度
・音色も文脈も感情も「素材」と見なすサンプリング的な発想が根幹にある
・必要分量だけのギター音の素材を用意するためだけにギターを弾いているような態度


そしてここからが本題である。
しょっぱなに書いた、"演奏の中身が変容したのではないか" "マシンと身体性が有機的に混ざりあった、新しい身体感覚による演奏が生まれているのではないか"、
という問いについて踏み込みたい。


改めて「エディトリカルギター」とは、身体性に依存しなければ生まれないヴァイヴスと、パソコン上でのエディット作業でなければ生まれないヴァイヴスを区別せず有機的に絡めてからやっとこさピックを握る。そういった態度から生まれるギターを意味している。

しかし、そのような作曲と編曲を同時に行う感覚は目新しいものではない。直近だと(それでも8年前?)、中田ヤスタカの「五分の曲って五分で作れる」発言があり、
その前にもYMOはいちはやく作曲、アレンジ、演奏を並行で進めるスタイルを確立したし、
そのスタイルのコモディティ化として90年代に中村一義を初めとする多くの宅録ミュージシャンの手によってベッドルームレコーディング文化が生まれている。


その過程で、「ギターを演奏する」行為の内実が変容していった過程に注目したいのがぼくの目的である。



ギターの「演奏」とはつまり、
「指板上で適切なフレットの位置で弦を押さえる」、「もう片方の手で、あるいは握ったピックで適切な弦を弾く」操作の連続である。
しかしエレクトリックギターが生まれてからはどうだろう。そこにさらに「ツマミを調整する」、「ペダルを踏む」といった操作も加わった。

そしてぼくは、ギターそのものの「演奏」とエフェクターの「操作」という二つの行為を 分けて 捉える事を適切ではないと考える。

なぜなら「ギターの弦を爪弾く」タイミングと「エフェクターのペダルを踏む」タイミングが音を生み出す上で密接に結びついているのだ。

このときの演奏者は、ギターの「演奏」とエフェクターを「操作する」を直列作業で行なっているかといえば、決してそうではないだろう。
「弾く」行為とエフェクターの「操作」を並列で処理しながら音を奏でているはずである。
だからこそ、ギターを「弾く」作業とエフェクターを「操作する」作業は有機的に絡み合うことで、
エレクトリックギターならではの自由な音像変化の機微に富む音が奏でられる。

ならば、エフェクターの「操作」すらもギターの「演奏」に加えるべきなのではないだろうか?
コンピューター上での「エディット」「編集作業」すらもギターの「演奏」に加える事が可能ではないだろうか?
それはつまり、コンピューターが行うあらゆる電子的な演算処理能力すらも身体感覚の一部に取り入れているではないだろうか・・・?

エディトリカルギターと銘打って主張したいのは、ギタリストの身体感覚の拡張性についてである。

ギターの演奏の前後に、コンピューターによるエディットが行われるようになった今、
ギターの「演奏」と「ピッチの調整」や「周波数帯の調整」、「強烈な音像変化」といった「エディット」すらもギターの
「演奏」の一部になった、ひいては、コンピューターの持つ計算能力を身体の一部にしてしまったのだ。


ただ、この大きな確変はProtools登場から遡って20世紀初頭(諸説あるけど)、エレクトリック楽器が生まれたタイミングにも起きている。

例えば、70年にリリースされたマイルス・デイヴィスのジャズアルバム『Bitches Brew』では(本人はジャズに区分されることを嫌うだろうが)、
トランペットをワウペダルに繋ぐ事でエレクトリック・ジャズを展開し物議を醸した。そしてこの作品に内在する革新性をプレイヤーシップに寄った
視点で自分なりに説明すると、
エフェクターを導入した事により「ワウペダルをどれくらい踏むのか」という電子機材への操作のさじ加減とタイミングが
本来のトランペットの操作である「マウスに息を吹き込む」タイミングにモロに大きく関わってしまっている為に、
「曲展開に合わせパラメータを変更する」行為すらも「トランペットの演奏」内部へと取り込んだ、この変化にある。

少なくともアコースティック楽器からは生まれない音の動きだし、ということはアコースティック楽器とは違った操作が求められるのは当然、という
当たり前な話をしている訳だけど、
エレクトリック楽器やコンピューター上での作曲ソフトウェアなど、
新しいテクノロジーが生まれた事で「演奏」の意味が拡張された、ソフトウェアのもつ演算能力さえも体に取り込むことで、
プレイヤーの身体感覚が拡張されている、この変化を見逃してはいけないのではと思っている。




最後に、なぜぼくがエディトリアルギターという言葉を用いて、「演奏」の意味が拡張されたことや、新たなギターの演奏スタイルが生まれたことを
ウダウダと考えるようになったのか、そのきっかけを書きたいと思う。



それはぼくが大学で1年間マンドリンギター同好会に所属していたときの経験である。
そこで最も苦戦したのは、「五線譜を見ながらギターを弾く」事だった。
ぼくは高校時代からギターを弾いていたが、その時アテにしていた楽譜はもっぱら「TAB譜」だった。
TAB譜とは、ギターの弦6本に連動した線がそのまま6本並び、そこに音符の代わりに指板のフレット数が表記された楽譜である。
そのため、音程を読み取り→指で弦を押さえるまでの流れがスムーズで、まさしくTAB譜という記録媒体とギターの”互換性”はかなりバッチリと言える。
対して五線譜はドレミの順に並んでいるため、同じくドレミの並びを持つ鍵盤楽器との相性が抜群である。
となってくると、「五線譜」と「ギター」の互換性はかなり最悪だと言える。なぜなら五線譜では音階は下からドレミの順番に表現されるが、
ギターのドレミの配置は(ある程度規則性はあるけど)かなり複雑である。
例えば、鍵盤上では両手指3本で終わるような構成のコードも、ギターの構造で奏でるとなるとなぜか指2本で完結したり、
マジで指4本駆使しなければならなかったりする。
そんなこんなでマンドリンでは、五譜譜の情報をギターで出力するためにフォーマットを変換するみたいな処理能力をそこそこ鍛えられた。

翻ってコンピューターで楽曲制作するとなると、大概の処理能力をソフトに任せられる。例えば、鼻歌を五線譜で表記するにもソフトを使えば一瞬で済む。
けれど、コンピューターがなければ鼻歌から楽譜を書き起こす作業は自分の頭を使わなければならなかった。
つまりDTMは、ほんらい自分の身体感覚を用いて行っていた変換処理を外部委託できる環境である。

そして今となっては、パソコンの持つ演算能力を「外部」に位置付ける事もめちゃくちゃ的外れだと思う。
コンピューターが、ソフトウェアが持つ計算能力すらもからだの一部に含まれてしまった。
それに気づいたとき「コンピューターの持つ変換能力を血肉化したうえで演奏されるギター」に可能性を感じて、
なにかぼくの中で言語化しないといけない!という衝動に駆られ、
アコースティックギターでもなくエレクトリックギターでもなく音響派のギターのつぎの系譜として、エディトリアルギターを思いついたのだった。