-TUNNEL- 文化と外側を繋ぐトンネルへ。

音楽、映画が中心。文化とその外側とつなげる視点をつくっていきたい。

「そうじゃなかった歴史」について。ビートルズと小松左京

先々月、おなじ部署の直属の上司が辞めていった。
その上司は器用で要領がよくて頭の切れる人だったけど、キツすぎる性格から職場ではかなり浮いた存在でだいぶ嫌われていた。
だから辞めていなくなった時には、ぼくの部署の人たちは惜しい思いをしていたが、職場全体としては清清したというムードだった。
それに同調するか、辞めていった上司の肩を持つかでぼく自身の性格がわかるなぁと思っていたけど、
そのどちらでもなく、「もし辞めていなかったら、仲良くやっていたら職場はどうなっていたか」を考えていた。
(いやどっちかというと上司を支持してたけど)

当たり前だけどぼくたちの歴史は一つしかなくて、いまここでぼくたちの目の前に広がる世界こそが”正史”である。

正史とは常に選択の積み重ねであり、あらゆる種の遺伝であり、勝者や為政者たちの歴史であり、つねに彼らの言葉によって記されたものである。
ぼくたちの歴史はまさに、生産によって紡がれる「種」の系譜である。
そしてとうとう正史にはなり得なかった、「上司が辞めなかったかもしれない世界線」は「そうじゃなかった歴史」であり、
「種」の系譜に対して「排泄物」たちの系譜の一部になってしまった。

じゃあ「そうじゃなかった歴史」や「紡がれなかった系譜」たちはどこに行ったのか。そんなことを考えている。

たとえば、まるでミディ=クロリアンのように空気中のいたるところに存在しているのか、
あるいは宇宙のどこかにあると言われる、この世のすべての出来事を記録した図書館 = アカシックレコードにもう記されているのか、
あるいは「二次創作」というかたちで出回っているのか、
あるいはすべての歴史にアクセスすることは決して許されないとして「結晶星団」の中に"造形主"によって極秘に封印されているのか。
とにかく、正史以外の歴史を体験することは
タイムマシーンで時間を巻き戻して過去をやり直さない限り僕たちにはできない。
でも考えることはできる。


そんなシュタインズゲートやギャルゲーのようなことを考えているのも今とは違う現実を望んでいるからではなく、
ちゃんとしたポジティブな動機からきている。
「そうじゃなかった歴史」たち、この正史から見逃されたり排除されたり評価されなかった文化を見つめ直すことで、
いまここの現実に起きているあらゆる文化やシステム的行き詰まりの解消を目指すとか・・・。

そんな高尚な動機でもなくて、ぼくにとってはただ「音楽史」に対する問題意識であり、
広く共有された正史とは違った歴史観から音楽史の系譜をとらえることで得られる新たな発見や興奮や感動のためである。


たとえば現在のイギリスの音楽シーンをあげたい。自分なりの言葉で批判的にいえば(一部のひとは不愉快に思うかもしれませんが)、
少なくとも20世紀まではメディアも国政も一丸となってビートルズの幻影を追い続け、ビートルズ的価値観をひたすら再生産し続け、
「imagine」とヒッピーカルチャーでマインドセットされた左翼思想が生まれたという正史がある。
そして新しく生まれた作家たちを「ビートルズ的なミュージシャン像」に当てはめることでしか評価できなかった批評史がある。

しかしその背後には常にアシッドハウスや地下、ルーフトップパーティやレイヴ、サウンドシステム文化、ダブ、
アフロやレゲトンミュージック、そしてグライムといった系譜たちがいた。
ブリットポップという巨大なムーヴメント一色だったとき、まさしく「そうじゃなかった系譜」たちもそれぞれのコミュニティで隆盛していた。


そして、今のイギリス出身ミュージシャンたち(King KruleやJamie isaacらのようなブリットスクール出身アーティスト)や、Sampha、Kamasi Washingtonらを巻き込んだ『Everthig Is Recorded』(2018) のようなポスト・ジャンル的な交流による作品群、
それを企てたリチャードラッセルが主宰するXL Recordingsに所属するThe XXの登場、このバンドと同時期にクラブシーンからうまれたJames Blake、その彼を中心としたダブステップの系譜がソーシャルメディアに乗っかり海を越え今のMoses SummnyやSolangeや韓国のHYOKOHたちを生むひとつになった。
というような系譜に対して、先のミュージシャン達がたとえ”ロックバンド”という形態をとっていたとしても、
正史として鎮座しつづける”ロックの文脈”だけでは、正確に作品の立ち位置を捉えることも新たな発見やさらなる音楽的な気持ち良さを得ることは難しい。
という現実に直面してから、正史に対する批判的な態度が自分の中で強まった覚えがある。
もはやアクモンはグライムの文脈で語るべき、という指摘すらある。




そんな「見逃されてきた系譜」をぼくがつよく意識するきっかけは明確にある。
ハッキリとしたきっかけとして、2つの書籍との出会いを紹介したい。


1つは小松左京という小説家の作品群。
名前に聞き覚えがなくても「日本沈没」を書いた人だといえば親しみが湧くかもしれない、SF小説の元祖と呼べるようなSF作家であり
常にリアリティのあるSF描写を通して「そうじゃなかった歴史」をシミュレーションしつづけた。
そして彼の作品群には色んなかたちで「戦争」が登場する。


初期の短編『地には平和を』は、「8月15日に第二次世界大戦が終わらなかった世界」で生き延び続ける愛国少年兵の物語である。

その愛国少年は本土にて米兵から逃げ続けているが、結果逃げ場をうしなって自死を決断する。
そして、その直前に未来人と出会うわけだが、、その未来人とは正確には未来からきたわけではなく、「もう一つの世界」、
つまり「8月15日に終戦をむかえた世界」からの来訪者であり、時空警察をなりわいとする役人だった。
その時空警察は「終戦を迎えなかった君がいるこの世界は本来あってはならない歴史であり、歴史を一つにするためにこの戦争が続く世界線をリセットする。」と伝え、
その少年兵を「終戦をむかえた正史」へ呼び込もうとする。
ただ国のために戦い続けた少年兵は「この世界を手放せるものか」と激昂する。が、結果として大人しく「終戦をむかえた正史」(ぼくたちの歴史)側に来ることになり、「終戦しなかった歴史」は消去され、少年兵はその思い出を忘れてしまう。
数年後、少年兵は家族と共に出向いたどこかの平原で見覚えのある小汚い胸章を拾い、どこか懐かしくて禍々しい戦争の記憶がフラッシュバックする、という話だ。
胸章を拾ったことで少年兵が「経験していないはずの記憶をフラッシュバック」してしまうのが不思議で面白くて印象に残っている。
そして小松左京は、この作品上で8月15日に終戦しなかった日本を描きつつ、その歴史を「あってはならない歴史」だと訴えた。

また『地には平和を』とは対照的に「第二次世界大戦が起きなかった歴史」にとつぜん放り込まれた戦争経験者がひたすら「戦争はあった!」と
主張する(最後は精神病棟に隔離される)作品『戦争はなかった』もある。どちらも戦争が絡んだパラレルワールドが舞台の物語だ。

もしくは、ぼくがもっとも好きな作品『物体O』。日本本土に巨大な”指輪”が落ちてきて、日本が”指輪の外がわ/指輪の内がわ”の二つの世界に分断されたところから物語が始まる。
指輪の高さは深海から大気圏まであって電波も通らない。また、指輪そのものによって東京が下敷きになり消滅する。
主要都市を失った日本で、指輪の内がわと外がわ、それぞれが混乱の中でなんとか内政を整えていき結果的に生きていけるエコシステムが成立するが、、その途端に巨大な”指輪”は消えてしまう。
この作品はSFでも楽しめつつ、甚大な災害や戦争がおきたときに国民と政府にとってどのような振る舞いが最良であるかのシミュレーションとも受けとれる。

(ちなみにその指輪の正体は・・・どこかの老夫婦が床に落とした指輪が突然巨大化したものだった、気がする)


前後するが『日本沈没』も、小松左京なりの理想的な終戦をシミュレーションした「終戦論」だったとよく評されている。
日本が沈没していくなかで官僚がどう対処していくのか、そして日本という国土がなくなり日本人がディアスポアとして世界各国に散り散りになったときに
「日本」のアイデンティティはどこにあると言えるか、そんな疑問をぼくたちに突きつける作品だ。
そして敗戦後に「日本」は「日本」自身をどう成立させるべきだったのか?という反省、
高次元の存在として設けられた天皇制や国民主権のようなバーチャルな仕組みが何なのかを問いかける。
「そうじゃなかった歴史」やパラレルワールドが描かくことで、こちら側の正史を揺さぶっているのだ。

そんな彼のSF作品の執筆活動のルーツには、じっさいに彼自身が14歳で終戦を迎えたこと、
つまり終戦後に「日本」のアイデンティティがどう確立されてきたかを肌で感じ取ってきた、そんな経験がある。(とインタビューでも答えている。)
一つしかないぼくたちの歴史と国家を客観的にとらえるための手立てとしてのSFであり、パラレルワールドであり、「そうじゃなかった歴史」だったことが、
ぼくにとってはあまりにも新鮮すぎるSF体験だった。



2つ目は檜垣立哉『子供の哲学 生まれるものとしての身体』。

この本は、著者がデカルトの主張(「わたしは考えるものとしてある、だからわたしは存在してる」。
そして、「わたし」が存在できるのは言葉の上でしかなく、物質的な「身体」は不必要であるということ。)に対して、
両親から産まれたという身体性にもとづく事実を無視できるの?という問題提起から、
「存在」することと切っても切り離せない「生殖性」についての哲学が展開されている。
とにかく、ぼくにとってわかりやすかった当該の一節をいくつか引用する
(kindleでしかもってないため正確なページ数のデータ知らないしまともに引用しません)。

“生命と身体をもった「この私」とは、べつの「私」を産むものとして生きている。このこともまた疑いのない事実ではないか。そしてそうしたことは、男性であれ女性であれ、そしてトランス・ジェンダーであれ、子供を産まないひとであれ、同じであると主張することはできないだろうか。なぜならば、誰もが、どうしたところで産まれてきた存在であるよりほかはないのだから。誰かが妊娠しないと自分はいないのである。”

http://a.co/cyikawB

“西田(幾多郎:引用者注)が後期に描いている「行為的直観」とは、行為(なすこと)という身体の能動的な力と、直観(みること)という受動的なあり方とを、経験のなかでダイレクトにむすびつけたものである。そこでは身体の行為が論じられるのだが、それは意味を付与する身体の行為のことなどではない。西田が重視しているのは、まさにポイエシスとして、何かを制作する =生産する身体の行為のことなのである。 (引用者略...) さらに西田は、身体そのものは「作られたもの」であるととらえてもいる。”

http://a.co/1dhfrFb


誰しもが生物学的な生殖性にかぎらず”子ども”を産んできた
(ここでの”子ども”にはとうぜん実子にかぎらず、非人間的なもの、作品、文化も当てはまる)。
いまの「わたし」と「現実」が存在するのは、人や社会や環境が生殖性をもって遺伝をくりかえしたからである。
“何かを制作する=生産する”ことで「正史」が生まれる、ということは、その「正史」の裏側で「正史にならなかった歴史」も同時に生まれている。
そして、「正史」と「正史にならなかった歴史」を同列に並べることもできる。
この本の主張では、
まず、親がいたおかげで「子」は生まれるため「親」と「子」は非対称的な関係であり、「子」は産んでくれた「親」を時間的に超えることはできない。
しかし「子」が先に認識されたことで「親」が認識されたとき、形而上において時の流れを越えている
この点において、「親」と「子ども」は同列的であってもよくて、時間軸が逆転してもよいのではないかと提起している。
「そうじゃなかった歴史」があるから正史が存在しうる。どちらもが「親」「子」になり得たわけで、この両者には差異も序列もない。

表裏一体な関係だからこそ、たった一つしかないぼくたちの歴史をみつめるときに「そうじゃなかった歴史(観)」をもつことの重要性と妥当性がある。
ただ正確にいうと「正史/非正史」という二項ではなく、「正史」に対しその他大勢の生まれたなかった歴史たちが存在している。



ひるがえって「もしビートルズがいない世界にはどんな音楽が生まれていたのか?」という危うい命題を考えることは重要で時代性を踏まえてもタイムリーだと思う。
というか、まさに去年公開された映画である「ビートルズを知っている青年がビートルズのいない世界で成功する」ストーリーを描いた『イエスタデイ』は、
そんな危険なテーマに挑んだ”小松左京的な”SF作品だった。

もちろんビートルズがもたらしたあらゆる成果物(音楽性にかぎらず、”コンセプトアルバム”やウォールサウンドやシンガーソングライター信仰の発明)があることは
重々承知しているし、その恩恵をぼくらはモロに受けてるし、ビートルズがいたからこそ生まれた多くのミュージシャンと作品とオーディエンスの存在も大好きだけど、
ビートルズが存在しなかった世界では誰が・どんな文化が生まれてたのか、
ある種権威的だったビートルズ中心の主流の陰に押し込まれた系譜には音楽好きとして素直に興味がたえないしピックアップしていきたい。
さいごに、今思えばぼくのこの作品もそんな歴史観が詰まってたなぁと思った。
Baauer x Aj Tracy x Jae Stephens『3AM』remix
https://soundcloud.com/zoskin/3amm-bootleg